あくまでこれは、私個人の話なんです。
っていう前置きから。
もし「幸せですか?」と聞かれたら、
だいたいどんな時期でも、それなりに『イエス』と答えたと思うんですけども。
逆に、
「幸せになりたいあなたへ」
「幸せになりましょうね!」
「幸せになるためのワーク」
と言われると、
う、うーーーん…と腰が引けてしまっていた。
そんなタイトルがついているサイトはクリックできない。
今はそんなことないけど、昔の私の話。
別に不幸せだったことはないし、その時点でも幸せっちゃー幸せだったから、
「ほら!もっと幸せになって、いいんだよ!」とか促されたとしても、
ちょっと、困る…というか…
自分がその対象(幸せになろうとする人)というイメージが湧かない。
もしも、
「幸せになりたい人はこちらへどうぞ!」というコースがあったなら、
その席を先に誰かに譲ったほうが良いと思ってしまう。
幸せになりたくないわけではもちろんないけど、
『自分の幸せ』という定義もなんだかよくわからなかったし、
おそらく客観的に考えると、自分は幸せな方に分類されると思われるので…
優先順位的に、自分はそれには当てはまらないんじゃないか、と。
だから、その権利はもっと当てはまる人に譲らないといけない、
となってたのかなーと。
で、なんでそう考えるのかを、
自分で掘り下げてみたところ…
「世の中にはもっと大変な人がいるから」
「あなたができてないっていったら、他の人はどうなるの」
と言われることが多かったからな気がする。のよね。
ぶっちゃけますと、
「マイコさんはできてるから、他の人ができるまで待っていて」
「早く終わったなら、他の人の分もやってね」
「わからない人には教えてあげて」
「気づいた人がやっておいて」
「背が高い人はしゃがむか低い人を前に出してあげて」
…みたいなのをことあるごとに言われ続けてきた人生なので、
できていたり、得ているものは譲るというか、
そういうのが刷り込まれていたような気がするんです。
これがきょうだいがいるひとは、
「お兄ちゃんだから」とか「年上だから」的なことを追加されて、
同じような気持ちを味わってたひとも多いでしょうが…
私はひとりっ子な上に、家の中では甘やかされてきたので(苦笑
家族ではなく赤の他人に対して、こういうのを体験してきたんですね。
そして他人故に、文句を言える機会もなかったどころか、
そんなこと思っちゃいけないとも思ってたので…
「できるんだから、できない人を優先してね、代わりにやってね」
と言われたら、
まあそうですよね…その通りですよね…ってなるじゃない。
なので、
「できる」みたいな『本来はプラスのこと』なはずなのに、
周囲に気をつかうばかりで、
得したというか、良い思いしたことって、あんまりなかったな。
むしろそういうので、実はひっそりと傷ついてたのかもな、
と気づいたわけでした。
やっと。今。
ま。
こういうのも、学校や会社、組織や誰か他人といるときの話だったので、
一人でやっている今は、解放されてド・フリーダム。
言われることも無くなったし、誰のことも気にしなくていい!
(全部自分でやらないきゃいけないけど)
それこそ、「ありがとう!今『も』とっても幸せなのよ!!!」と
堂々と言いますけどね。
あと、もし今言われたら「うるせえバーカ」って返せる。笑
別にこれといった実害があったわけではないし、
「本当はこうしたかった!」とかもないので、
これはこれで処世術だったので、今はいいのだけれども。
下手に誰かに話したら、嫌味に取られるか、否定されるか、説教されるか、
いずれにせよ、肯定される話とは思っていなかったし、
誰とも共有したこともなかったことで、
だからこそ今の今まで掘り下げて考えようとすらしなかったから。
(私ができなくて誰かに迷惑をかけたこともあったろうし)
できない、なかった人の方がもっと大変でもっと傷ついているはずだから、
と、自分の傷ついた気持ちをなかったことにしてたんですね。
きっと、知らないうちに。
「幸せになっちゃいけない」とは考えていなかったのに、
自分と「幸せになりたい」を結びつけられなかったのは、
なんか、こういうことなんかが根底にあるんじゃないかなーと思った話でした。
まあだからこれはあくまで自己分析であって、
良い・悪いとかダメとかいうことではありません。
『幸せ』というキーワードが、
心の琴線にかすりもしない当時の私に、
突き刺さるような表現やコンテンツを、今の私が考えたいんだなー。
そうです。
つまり、昔の自分が欲しかったことやものを考えていたら、
図らずも過去の傷が剥き出しになったというわけです。はっはっは!
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